HOME

橋本努講義「経済思想」小レポート2003 no.2.

毎回講義の最後に提出を求めている小レポートの紹介です。

 

 

17010159 経済学科三年 木村義寛

主体的決定とは

他から独立して自らの意思で判断を下すことを主体的決定というのだと思っていたのだが、改めて考えてみると、果たして「他から独立して」というのは可能なのだろうか。

ある人が職業を選択するとき、その選択を主体的に為したのだとその人が主張したとして、その主張は妥当だろうか。ある人が大学を選ぶとき、その人は他から独立してその選択をすることができるだろうか。また自分は出来ただろうか、と考えてみると、どうも疑わしい、というか確実に周りからの影響をかなり受けているはずである。とすると、「他から独立して自らの意思で判断を下すこと」を「主体的決定」と呼ぶならば、どうもそんなことをしている人は存在しないのではなかろうか。人がある決定をする土台となるのはその知識(実践知と学知)であるが、それはもちろん外から与えられたものだから。

にもかかわらず「主体的決定」などという言葉が存在しているということは、「主体的」という言葉は意外と周囲からの影響を阻却しないということであろう。とはいえ、与えられた知識のみによって人が決定を下すものならば、同じ知識を持った人は必ず同じ決定を下すことになり、それはコンピュータに情報を入力して最適な決定を下させることに等しく、当人の意思の存在が希薄であり、「主体的」と呼ぶには各個の独自性がどうも足りなそうである。そこで各個の決定に独自性を付与するものは何かと考えてみると、それは生まれ持っての資質であろうと思う。その人の性癖が、同じ知識を持った他人と異なった判断決定を為さしめ、その独自性によって、独立した「主体的」な決定と映るのであろう。

共産主義

の、理想的生活像の中でマルクスは「各人はそれだけに固定されたどんな活動範囲も持たず……しかも決して狩人、漁師、牧人、あるいは批評家にならなくてよいのである」と言っているが、人の持つそれぞれの資質、性癖がそれを許さないだろう。知力に優れたものと腕力に優れたものはそれぞれ異なる部門でその力を発揮し、それに特化し、そこに生まれた子もまたおそらく同じ部門でその力を発揮するだろう。分業の廃止は、人間がすべて普遍的な能力を持っていたときにのみ実現されるのであって、現実には不可能であると僕は考える。が、彼は「共産主義とは…理想ではない。…現実の運動を共産主義と名づけている」といっている。共産主義の理想像をあげながら共産主義を理想とは言っていない。これは全く尤もなことで、その理想像が実現されないことを自白している。僕は彼の言う共産主義を、その理想像へ向かおうとする力の働きであると理解することにした。彼は「運動」といい、教授は「プロセス」といわれたが、僕がそれを「力の働き」というのは、それによって社会が必ずしも理想の方向に動くとは限らず、またその理想は絶対に実現されないからである。ある状態を定常化することではなくそこに向かおうとするのが共産主義であるならば、それは現在に存在して何もおかしくはない。ソビエトの失敗はそもそも不可能な理想像を無理やり現実のものにしようとしたために起こったものであって、それによってマルクスの主義を非難するのはお門違いというものであろう。

 

 

社会民主主義の生活

17010159 経済学科三年 木村義寛

エルフルト綱領とアイゼハナ綱領、特にエルフルト綱領の方だが、読んでみたところ随分と今の日本に近いものなのだなという印象を受けた。「医療の無料化と医薬の無料支給」の項などを見るとやはり「社会」と付くだけあって充実しているとはいえ、思想的には今の日本でもあっておかしくないようなもので、共産主義よりもかなり資本主義に近そうだ。自分ならこの社会にはきっと適応できるに違いない。勤労という面について見ても、「労働は能力に応じて、報酬は必要に応じて」とはなんと素晴らしいではないか。今の日本よりどうやら自分には向いていそうだ。おそらく大多数の人は同じ考えになることと思う。

ところがここに「能力の低い人が社会民主主義を好むのだ」という主張と「能力のある人ばかり多くの仕事を押し付けられるのは不公平だ」という主張がある。これらの主張についてこれから自分の見解を述べていこうと思う。それによって僕自身の主張も明らかになるだろう。

前者の主張はつまり、能力が低いために資本主義社会のなかで受け取る報酬よりも社会民主主義のなかで能力の高い人の成果の恩恵にあずかって受け取る報酬のほうが高いと判断した人間が社会民主主義にはしるのだ、というものであって、これはある程度真実を含んでおり、この主張をする人間はおそらく自身の能力を高く評価していて社会民主主義の中で自分の功績が能力の低い人間に分け与えられて自分の手の中に十分に残らないことに憤りを感じているか、もしくは、彼の主張を皆が直感的に理解していることを知っていて、社会民主主義を支持する主張を彼がしたときに、「彼は能力が低いから社会民主主義のなかで能力の高い人に頼って生きようとしているのだ」という印象を持たれることを恐れているものと思われる。前者ならば単なる利己主義であり、後者にいたってはもはや「主張」たり得ない。「能力の高い人は資本主義のなかでならばいい生活が出来るだろうに社会民主主義のなかで平凡な生活をしなければならないというのでは不公平だ」と客観的に捉えての主張であるという可能性も無いではないが、その場合には単に思慮不足であって、資本主義のなかで受け取る報酬は能力に比例するものではなく富はごく少数の人に集中しているのであり、所得の限界効用が逓減する以上(困窮する者と裕福な者の所得が等しく増加したときのそれぞれの効用を考えれば明らかであろう)社会全体の幸福を考えるならば「資本主義社会では不当に多くの人が食いものにされて不健全だ」と考えるべきである。

次に後者の主張である。これに対しては前者に対してのそれほど多くの反論は必要ないであろう。これは単に視点の問題である。この主張では、日と一人当たりに割り振られる仕事の量を等しくしなければ不公平であるとしているが、仮に等しく割り振られたとして、与えられた仕事をこなすために一日あたり能力の高い人ならば三時間、低い人ならば九時間かかる場合などはどうだろうか。ここでは能力の低い人は高い人の三倍の労力を毎日払はねばなら無いのだから、不公平ではないだろうか。等しい仕事量と等しい労力、どちらが公平か、これは「累進課税制度は公平であるか」という問いと等しく、判断は容易ではない。よってこの後者の主張はそもそも根拠が存在せず、不当である。

さらに、「必要なだけの報酬が保障されていては、労働意欲がわかず怠惰になるのではないか」という疑問は、名声への欲求を根拠に解消できよう。いや、僕はここではこれを消極的意味で用いるつもりであるから、軽蔑への恐怖といったほうが正しいかもしれない。つまり、軽蔑されることに対する恐怖心が、怠惰になることに対する抑止力たり得るであろうという事である。労働を怠ることで社会的立場が悪化したときの自身の不利益が、労働を減らしたことによる利益よりも大きいならば彼は労働を怠ることは無いであろう。疑問はすっきり解消である。

結論として、僕は社会民主主義を支持する。社会民主主義の社会は、理論どおりに実現されたならば理想的な社会であろう。ただ、それが果たして本当に実現できるものであるか否かは判断しかねる。

 

 

趙ゼミ 経済学科三年 木村義寛 17010159

労働・仕事・活動

に、ついて書こうと思ってWORDを立ち上げてみたものの、これについてはいろいろと考えてはいるのだが、混沌として形をとらないといった状態で、如何ともし難いので、今回は講義に関わりのない内容にしてみようと思う。

履修用アンケートを書いたときに、「今から読むべき本」を書かなかったことを突然思い出したので、あのアンケート以降に読んだ本と、これから読もうと思っている本、そして読書というものに関して最近思うことなどを徒然に書いていくことにする。

まず、アンケート後に読んだ本であるが、今数えてみたら、高だか200ページ程度の本を4冊しか読んでいないことに我ながら驚いてしまった。とりあえず題名を挙げると、「日本の目覚め」岡倉覚三、「人生の短さについて」セネカ、「イワン・イリッチの死」「生ける屍」トルストイ、である(すべて岩波文庫)。三年生になってから読んだものは教科書や公務員試験対策のための法学関係の本を除けば、これだけである。今は「戦争と平和」を読んでいる。が、まだ全四冊のうちの第一巻である。先は長い。これから読もうと思っているのは「アンナ・カレーニナ」「カラマーゾフの兄弟」(各岩波文庫)と「哲学の知恵と幻想」ジャン・ピアジェ(みすず書房)である。何しろ名作と呼ばれる大著をずっと読まずに済ませてきたので、読まなければいい加減にまずいのではないかと最近では危機感すら感じるようになってしまった。自分は読むのが遅いのでこれらを読み終えるのにはかなり時間がかかるだろうし、これらに時間をかけているうちにほかにも興味がわく本が次々見つかるだろうことを考えると、どうにも時間が足りなくて困ってしまう。

で、最近本を読んでいて、自分も含めて最近の大学生は随分本を読む量が少ないなぁとおもう。「戦争と平和」の第一巻は大学の生協で買ったのだが、これがなんと2001年6月発行のものだった。北大生が度々手にとっているならば、(自分はこの本を今月買ったのであるが)生協に並んでいる本は今年刷られたものであるべきである。大丸の本屋に並んでいるものは今年刷られたものであったから、自分が買ったものは二年近くも生協の棚に並んでいたことになるようである。世界の文学作品の最高峰と評される作品がこれほど売れないとは、なんとも嘆かわしいことである。いや、ことによると、北大に来るような人はもう皆こんな有名な作品は読んでしまっていて、大学に入ってから買うような自分が独りで本を読まなさ過ぎるのかもしれない。などとも最近は考えたりするのだが、昼休みにも文庫本を広げている人をあまり見かけないくらいだから、きっとみんな読んでいないのだろう。自分はもっと本を読みたいのだが、いかんせん時間がない。経済学部せいは暇だといわれるが、それは暇にしようとすれば暇に出来るだけであって、まともに勉強していれば暇になぞ出来るわけがないのだ。自分は今、大学受験のころより勉強時間を増やしている(と思う)し、まったく一日二十四時間では足りたものではなく、四十時間くらいになってくれないものだろうかと願ってやまないのである。時間をもてあまして「ヒマ経」などと馬鹿にされるために一役買っている人から余った時間を譲ってもらえばよっぽど有意義に使って見せるものを、と思うものである。

 

 

趙ゼミ 経済学科三年 木村義寛

有閑階級と文化

文化の発達について、有閑階級はその要因の大きなところを占めていると思われる。工芸品の技巧は彼らが惜しみなく財産をつぎ込んだために発達したところが大きいであろう。彼らが「周囲の人よりもっと上等なものを」と思わなかったならば、彼らが互いに競争しながら技巧を凝らしたものを求めていかなかったならば、彼らが晩餐会の席でさりげなく人の目に留まるように部屋の中に配したような数々の美術品は生まれなかったはずである。また日本においても、大名や侍たちが美術品に対して家産を蕩尽することを厭わないほどの情熱を持っていなかったならば古満の金蒔絵の素晴らしい細工は生まれ得なかったのである。もっとも日本の大名や侍については、競争心というより黄金に対する軽蔑がそうさせたと言われているけれども。

絵画や文学などの分野でも、その発展には有閑階級が貢献していよう。労働者階級の人間には芸術のために割く時間も財産もないからである。有閑階級の人間だけが、そういった芸術に対する審美眼を涵養し、またそれを改良する時間を持っていたのである。

また、ある国を外から眺めてみたときにその国の「文化(生活様式)の型」として観察者の目に映るのは、有閑階級のそれである。およそ労働者階級の生活は、食料や衣服などの生活必需品の生産と獲得という、どこの国を見ても大して変わるものではなく、その国に独自の性格を示すものは有閑階級の生活だからである。音楽、遊戯、礼儀作法など、国家間で比較の対象として取り上げられるのは有閑階級のなかにある洗練されたものである。西洋の有閑階級ならば乗馬やダンスはもちろん、外国が流暢に話せること、晩餐会での会話の仕方などもその特徴になろうし、日本ならば、柔、剣、弓術に能や茶の湯があり漢詩を読むことも有閑階級の人間のみのことであった。

有閑階級の文化の型を以てその国の文化の型とすることが多いことについて、彼らが保守主義であって、何世紀も前から伝統を保持し続けていることもその理由の大きなところであろう。彼らの生活はそれ全体が顕示的なものであるので、自分を優れたものと周囲に認めさせるためには、すでに優れたものとして認められた「古き良きもの」を保持することが最も効率がいいのである。日本においても然りで、日本全体が徳川氏の君主主義に向かって進んでいる16世紀にあって、公家の人間は12世紀以前の生活をしていた。その装束は11世紀のものであり、その礼式は10世紀のものであり、唐時代の音調を喪って漢文を読み、9世紀以前から伝わる舞楽の拍子に合わせて舞を舞い、和歌は藤原調の醇雅を好んだ。

現代は、労働者階級も暇な時間を持てるようになり、芸術を愛でるようになってきたが、その審美眼は有閑階級で完成されたものを順次下の階級が模倣し取り込んでいったものであるので、やはり文化は有閑階級が定めていくものであると思う。

 

 

17010159 木村義寛

実践知と学知

ルソーの教育論「エミール」のテコの問題から、「実践知」と「学知」について考えてみようと思う。僕は、話に出てきた百姓の子供は、テコについて知っていると言って良いと思う。また18歳の大学生もテコについて知っていると言える。大学生はテコの理論を知っており、百姓の子はテコの実際を知っているのだ。大学生の知っているテコは支点力点作用点を備えた「なにか」であり、百姓の子の知っているテコは鍬であり犂であり釘抜きである。この二人のテコというものに対する知のどちらが優れているのかは誰にも決めることは出来ないだろう。

ここに硬い木に刺さった釘がある。抜かなければならないが手許の釘抜きではいくら力を込めても抜くことが出来ない。大学生はどうするだろうか、彼は支点から力点までの距離が大きいほど作用点にかかる力が大きいことを知っている。彼は釘抜きの柄に長い棒を括り付けて力点を支点から遠ざけることを思いつくことが出来る。支点と作用点との距離を小さくする工夫も思いつくだろう。百姓の子はどうするだろうか。彼は大学生の頭に入っているような理論を持ち合わせていない。しかし彼には父親から叩き込まれた実践知がある。大学生が棒を括り付けているのを横目に一蹴の下に釘を抜き去るかもしれない。定めし大学生よりも簡単にこの問題を解決するだろう。

積み重ねた経験から百姓の子は身の回りのテコの使い方の巧みさに関しては大学生を寄せ付けないだろう。しかし大学生は理論で解決に近付くことができる。今回の問題についていえばその解決方法は百姓の子の荒っぽい方法にさえかなわないかもしれないが、彼はたとえ釘抜きというものを初めて扱うのであったとしてもその理論によって途方に暮れることなく解法を見出すことが出来るだろう。百姓の子が父親から習った範囲でしかテコを知らないのに対して彼はテコの構造を理解しているために、それを利用したあらゆるものを、それが初めて目にするものであっても、効率的に扱う術を推察することが出来ると思われる。

大学で「学知」を学ぶ理由というのはそういったところにあると思われる。まず、くぎ抜きや鍬犂の扱い方をそれぞれ手に肉刺を作って身に付けるというのはそれに要する時間、労力という点で実際現実的ではない。われわれは百姓の子ではないし、そのような方法では身につく知識の範囲があまりに限られてしまう。それに対して理論を学ぶ際には、同じ労力でより広い範囲について学ぶことが出来る。多くを知っているほうが多くの問題に対処できるであろう。また、学知が実践知に対して優れている点は、上で述べたように、汎用性があることである。なにか問題が起こったとき、それが今まで直面したことのない事態であった場合に、釘抜きの例で見たようにそれによって導かれる解法が常に最善であるとは限らないけれども、コンパスのように最善の解法に近付くための手がかりになり得るのは学知のほうであろう。もちろん、身に付けた学知もそれが畳上の水練とならないようその上に実践知を積み重ねることが重要であることを僕は忘れてはいない。

 

 

 

17010093 経済学科 宮部朗子

ハンナ・アレント『人間の条件』の講義を受けての感想

 ハンナ・アレントの説く活動への憧憬は、しばしば人々に、夢想的な勘違いを起こさせる。それは、ラスコーリニコフの言葉を借りて言えば、虱(その他大勢の人間のメタファー)のくせに自分をナポレオン(一握りの人間のメタファー)だと信じる自惚れに他ならない。

 私は『罪と罰』を己のバイブルとして以来、斯くの如き自己の過大評価にストイシズムを課すことを常としてきた。従って、自分の卑小さを全く無視して偉大なものに触れることができない。例えば、ゴッホ展に赴いた際の感想がこうである。

 

 そこで私がはじめに目撃したもの、それは何であったか? ゴッホ作『麦藁帽子を被った自画像』であっただろうか? 来場者に向かって注意を促す、痩せ細った警備員の曇ったメガネだっただろうか? それとも、クリーム色の壁に掲げられた、何らかの説明文であったのか? はたまた、会場を取り巻いていた、照明のやわらかな光だったのだろうか?

 否! どれもこれも否! 私がこのゴッホ展で一番最初に眼にしたもの、何を隠そうそれは「さく」であった。ゴッホの絵にこれ以上近づいてはいけないということを示すべく設置された「さく」であった。

ここにおいて、どうして目頭をあつくせずにいられようか! この「さく」を眼にした瞬間、私はどうにもならない底知れぬ絶望をギリギリと噛みしめるに至った。これが、これこそが天才と凡人の隔たりなのだということを悟り、切なさのあまり涙が零れ落ちそうになった。嗚呼、ナマでゴッホの絵を観るとは、こういうことであったのか。

ピカピカと無機質な光沢を放っている、低い「さく」。それによって醸し出された、ゴッホの絵と私との距離、およそ六十センチメートル。たった、たったそれだけの間隔であるのにも拘らず、「さく」のあちら側には歴史に名を残すほどの天才と呼ばれる人間の作品があり、「さく」のこちら側にはそれを眺めるだけの人間でしかない凡人、すなわち私がいる。いや、私だけではない。あちら側にいる一人の天才に対し、こちら側には沢山の凡人が所狭しと犇めき合っているのである。ドストエフスキーの代表作『罪と罰』に登場する病的な美青年ラスコーリニコフの言葉を借りれば、あたかもナポレオンにむらがろうとする数え切れぬ虱のように、というたとえにでもなろうか(ラスコーリニコフ曰く、「……一直線に進む者にとってのみ人間が虱なのだということくらい、僕が知らなかったと思うのかい? ナポレオンならやっただろうか? なんてあんなに何日も頭を痛めたということは、つまり、僕がナポレオンじゃないということをはっきりと感じていたからなんだよ……」と)。

 ……虱の我が身よ、哀れ。

 

 

マルクーゼ『エロス的文明』の講義を受けての感想

17010093 経済学科 宮部朗子

 この度のテーマ『エロス的文明』、第七章“空想とユートピア”に見られる、「空想」と「抑圧からの自由」は、私の記憶の中に埋もれていた一冊の書物を思い出させた。それは、原田宗典のエッセイ集『スバラ式世界』(集英社文庫)で、この本にある“セーラー服を脱がさせないで”(215219頁)という項目が、「空想」と「抑圧からの自由」に実にマッチしているのである。

 

「昔はなあ、オナニーひとつコクにしても大変な苦労が伴ったもんや。まずネタがひどかったものなあ。エッチな本を買っても、たいていそういうとこに載ってるモデルちゅうのは魚屋のオバハンじみた女ばかりやったし、露出度は低かったし、もちろん今みたいにビデオもあらへんかったしな」

 

 これは、原田氏の友人O氏の言葉であるのだが、この発言に見られる当時の若者の苦労は、現代の充実したエロ本やアダルトビデオと比較するに、まさしくセクシャリティーが解放される(90年代以降)以前の日本に於ける、性に対する社会の「抑圧」に起因している。

 そしてその「抑圧」からの解放の手段として、原田氏は「空想」の重要性を説いている。

 

 オナニーだって例外ではなかった。エッチな雑誌を買ってもブスなババアの裸しかない時代には、ものすごい想像力でそれを補ったのである。……(中略)……オリジナリティーあふれるストーリーを一々展開しては、猿的オナニーに耽ったものである。ひょっとしたらぼくが今日まがりなりにも作家になっているのは、こういう訓練を毎日毎日積み重ねてきたせいかもしれない。

 

 このように、当時の若者は「空想」でもって「抑圧からの自由」を試みたのであった。私はここに、「空想」と「抑圧」の必要十分的な関係を見出さずにはいられない。それらは常に表裏一体であり、片方が欠落すれば片方もまた、存在意義を失うのではあるまいか。然れば、原田氏もその懸念を指摘している。

 

 それが今やセブンイレブンで売っている雑誌にまで露出度の高い裸が氾濫し、しかもみーんな可愛くて若い女の娘ばかりなのだ。昨日までセーラー服を着ていた女子高校生が、今日は乳や尻はおろかもうナンもカンもさらけだして「うふふ」なんて顔をしてるんだから、これはある意味で興醒めなのである。/こういう“何でもアリ”的状況、しかもかなり可愛い女の娘が“何でもスル”的状況から予測するに、十年後の日本を背負う青年たちは、きっと想像力の欠如した男になってしまうのではないかと、ぼくとOは憂えたのであった。

 

 

経済学科 3年 17010067駒野晶子

「実践知、理論知について」

 今、考えていますが、ちょうど友達が来ているので議論をしてみました。ちなみにふたりとも車輪の両輪が一番だと思っているのですが、あえて立場を変えていこうと思います。

以下、実践知側が私、学知側が友人です。

この場合、少年は知っていると言えるのか。

私「知っていることになると思う。実際に使える知識が最低限必要な知識であり、理論的な知識は付属的なもの、つまりあったほうがいいけどなくてもいい知識であると思うから。」

友「知らないと思う。なぜならば、ひとつに少年は限られた状況でしかテコを使えないから。例えば棒を使って木の根を掘り返すことはできても、他の場面でテコの原理を使うことはできない。それは真にテコが何か知っていることにはならない。また、テコという物を多くの人に広めることができない。なぜならば人にテコを教える時、少年は目の前でやってみることでしか教えられない。それに対してテコの原理を知るものは多くの人に容易にその知識を伝えることができる。しかも、その知識を多くの人で共有することにより、多くの人で検証できるのである。そのような発展性が無い以上、少年は本当に知っているとは言えないだろう。」

私「テコを使ったことがない相手に初めてその使い方を教える場合、実際に使ってみせてそれを真似させるのが第一歩であると考える。そもそも前提として実際に使う知識がなくてはならない。理論だけの知識を持っていてもそれを人に伝えることはできないのではないか。」

友「確かに使い方を教える時はその使い方を知らなければならないが、使えるからと言ってテコとは何かを知っているとは限らない。猿は人間のまねをして反省の仕草をするが、その本来の意味を知らないように、ものまねだけで物の本質を知ることはできない。それは偶然本質と合っているだけのことでとても危ないことだ。」

私「たとえ本質を知らなくとも実際にそれを行えることが始まりであって、本質は後から見つける、というのが物を知る順序である。赤ん坊は親の仕草を真似るがその本質を知るのは物心ついた後からだ。」

友「物心ついた後でなければ知っているとは言えないのではないだろうか。できるというのは知る以前の状態であって、知っているということはそれを他人に伝えまた応用して発展させることができるということだ。それが人間として知っている、ということではないか。」

私「人間として知っている、というのは自分の知識を社会に生かすことができてはじめて知っていることになる、ということですか?」

友「その通り。その中には発展させることも含まれるし多くの人に伝えることもそうだ。」

私「だとしたら、少年のテコを使った労働は、その労働がなされた時点で社会に生かされているのでは。だいたい知識の発展や他人に伝えることができる能力というのはテコへの知識とは違う次元のものであり、知識とは実際に使用できる能力それのみである。理論なんて実際の知識が生まれた後にでてきた後付けのものだと思う。」

友「しかし… 続きは明日!」

私「(勝った)」

そんな感じでした。

 

 

経済学科 3年 17010067駒野晶子

 私は官僚制の社会の方が生きやすい。「自由」や「快楽主義」という言葉は一見楽しげであり心惹かれるが、その社会はむしろ適応しづらく確固とした自分を持っていないと生きていけない。官僚制社会には、どうすればこの社会でうまくやっていけるか、という疑問に対してすでに明確な答えがある。禁欲的に真面目に堅実に生活していれば、社会に受け入れられその一員としてうまくやっていけるだろう。つまり、制度によって与えられた「良い市民」のモデルがあらかじめ存在しているのだ。

 ふたつを比較する上でわかりやすいように、何か辛い状況に直面した時の対処について考えてみる。快楽主義は生活の喜び、自由なエロスを楽しむことが目的である以上、辛い状況は極力避けようとする。もし他に選択肢があるのならそちらに移るだろう。それが楽しければそのまま、それも辛ければまた新たな道を探す。とりあえず現在を楽しく過ごすことができれば目的達成なのだから、たくさんの選択肢から常に自分にとって最良な選択を柔軟に選び生きていく。一方、官僚制においては社会の一員として生きている以上、そのような柔軟性はなく辛い状況に直面しても簡単に投げ出すことはできない。状況が改善されるよう祈りつつ辛くとも耐えていかねばならない。耐えることに一体どのような利点があるのか?官僚制社会においては忍耐すること自体に意味がある、という「我慢が美徳」的な考え方があると思う。耐えた先には幸せがあると考える。例えば、「この辛さを耐えることで忍耐力がつく。」そう思えば耐えることは無駄ではない。また、辛い状況を共有する仲間がいる場合、その状況が辛ければ辛いほど仲間内の団結が深まる。これは部活動を通して実際に感じること多々だ。

 私は官僚制的な考え方だ。物事は何でも最後までやり通すべきであり、途中で投げ出すのは「逃げ」だという思いがある。辛いからといってすぐ他の道へ逃げる人は根性無しだと軽視しがちだった。しかし最近、徐々に考え方が変わってきている。柔軟により良い選択肢を選ぶことが本当に「逃げ」なのか?新しい状況へ飛び込むには勇気が必要であるし、むしろ忍耐を良しとしてその場に留まっていることこそ「逃げ」と言えるのではないか?「忍耐力がつく」などと言うのは言い訳に過ぎないのでは…。辛い状況を耐えるためには何かその我慢の見返りを信じたい。耐えることなく他の道を選ぶ快楽原則を根性なしだと軽視したくなるのは、それまでの自分の忍耐の生き方を否定したくないからだ。官僚的社会に生き、社会に望まれる存在を目指してかたくなに生きてきた私にとって、最近身近に見えてきた自分とは違った快楽主義的な生き方は衝撃であり、怖い。信じてきた価値観を揺り動かされる。人生は何に重きをおくべきなのか。今まで私がしてきた決断は、本当に私自身が下したものだったのか。何か別の力によるものではなかったか。人生は一度きりで自分のものであるはずなのに、主体的に生きているつもりで実は受動的に生かされているような感覚に陥り怖くなる。

 今後の目標を考えた。辛い状況に直面した時はまずその状況を打破する努力をする。どうしても改善できないとなれば、かたくなにならず他の道への移行も考える。移行することは「負け」ではない。

 

 

経済学科 3年 17010067駒野晶子

資本主義と社会主義、どちらがいいのか。

資本主義社会において満たされるべき欲求は「所有」である。現在の日本はじめ資本主義社会の先進国では、すでにその欲求は充分に満たされている。ならば豊かな社会と言えるはずだが、しかし現実には鬱病、過労死、自殺…、社会によって生じる深刻な問題は増えるばかりであり、豊かな社会にはほど遠い。では、社会主義社会ならどうだろうか。社会主義社会においては満たされるべき欲求とは「社会的評価」だ。これについては前回の講義では不満が多かった。「社会的評価は自分の中だけで終わってしまう。」「具体的な報酬が欲しい。」「努力した分のメリットが欲しい。」などという意見が出たが、この意見自体、すでに資本主義的考え方に支配されていると言えるのではないだろうか。このような資本主義的思考を捨てて、資本主義社会を捉え直してみる。

資本主義社会において、能力の高い人はたくさんの収入を得る。それは豊かな生活を送るための手段である。自分の高い能力を豊かな生活を送ることで社会に体現しているのだ。ここで言う豊かさとは何だろうか。当然「所有」という欲求を満たすのであるから物質的な豊かさである。では、どこまで「所有」すれば豊かさを得るのか。それは「平均以上」という概念である。自分の生活レベルより下の人々の存在があって初めて豊かさを感じる。すなわち、資本主義社会とは、その出発点にすでに不平等が含まれており、社会的身分差を前提として成り立っている社会なのだ。一方、社会主義社会において欲求の対象となる「社会的評価」とは、物質的ではなく精神的豊かさを得るためのものだ。生まれた時から資本主義社会で育ち社会主義社会を知らない私にとっては、このような精神的豊かさが果たして本当に欲求の対象となり得るか、想像すら難しいが、社会全体がその欲求を持つのであればそれは理想的な社会となるはずだ。しかし、一度資本主義社会の味を占めた人々が社会主義社会への変革を求めるためには、その精神から変えていく必要があり非常に難しいだろう。(このように考えると、社会改革のためには宗教の存在が果たす役割は思いの他大きいのだろう。)豊かさを指標に二つの社会を比べれば、社会主義の方がいいと言えるかもしれない。

ただし、その前に「能力」について考える必要がある。ここで言う能力とは単に生産力のみを指しているわけだが「能力の高い人は…」と述べるからには当然裏側に「能力の低い人」を想定している。能力の高低は何によるものか。努力の有無、富の有無、先天性のもの、環境の差…など考えられるが、生まれつき人間に優劣があるとは思わない。また、世界レベルの環境の差はここでは考慮に入れないとすると、能力の高低は努力の差によって生じるか、もしくは富・環境の差によって生じる。もし努力の差によるものであれば、資本主義社会はある意味平等な社会だ。努力は誰にでも可能な要素であり、その量によって報酬が決まるのならばそれは平等と言えるからだ。一方、富・環境の差によるものならば、もとから能力の差によって報酬の変わらない社会主義社会の方が良い。この「能力」の由来についての問題は、はっきりした答えがでない。

 

 

経済学科 3年 17010067駒野晶子

「経済思想」の講義をこれまで何回か受けてきて最も切に感じることは、いかに自分の中に思想というものがないか、である。

私はAO入試、つまり自己推薦のような制度で北大に入った。そのせいもあってか、「真面目に勉強しないと」「いい成績とらないと」という焦りにも似た気持ちが入学当初から常にあった。大学は高校までの相対的評価ではなく、絶対的評価だからやる気さえあれば優はとれる。加えて経済学部の特徴なのか、大学生全般にそうなのかわからないが、「単位さえとれれば」と考える人が多いようで、標準以上に努力すればいい順位をとることもそう苦ではない。だから私にとって優をたくさんとっていい順位を得るということは、自己満足にもなりかつ親に顔も立つという点で、大学生活の目的にふさわしかった。「大学の授業なんて無駄。」とぼやく言葉は負け惜しみのように聞こえていた。

「経済思想」を受講している学生は、他の授業では会わない人が多い。おそらく自分の興味ある授業だけ出て、あとは独学しているのだろう。私の基準では不真面目な学生と言える。しかし、授業の最後にマイクをまわされる時の彼らの意見はすごいといつも思う。独自の理論が生きている。私は授業の内容は理解できるが、それに対しての自分の意見を見出すことができない。自分の中に思想がないからだ。優をとる、教授という他人からいい評価を得ることだけを目標に学んできた勉強は、まるで私の中に生きていない。優をとった科目が果たして自分のものになっているかと言えば、そんなこともない。例えばマクロ経済の授業は今期でもう三回目になるが、おそらくテスト前にはまた基礎から復習しなくてはならないだろう。残っているのは見栄えのいい成績表と、それを見て私が真面目に頑張っていると信じている親からの信頼だけだ。私は学問を学んでいない。

大学は何を学ぶところなのか?入学前は就職への一段階と考えていた。大学で知識を身につけ、就職してからその知識を社会に還元するものだと思っていたのだが、文系学部の4年間で身につけられる知識などたかが知れている。それこそ院へ進学し、研究者を目指すくらいしかその道はないように思う。ならば、自分の興味ある分野を見つけ、そこを掘り下げていく過程で自分の中に構築される独自の思想こそ、今後の人生のために重要なのではないか。人生の岐路に立たされた時、自分を支えてくれる軸となる信念を得るための思想だ。私がこの経済学部三年間で得たことは、特に疑問を持つこともなくそういうものとして受け入れた中途半端な経済知識と、いまだに重要視してしまう他人からの評価だけだ。むしろ、今後の生き方に関わる力を得たのは学部以外の生活よるところが多い。

今後の学生生活の目標は、「自分を見つけること」にしようと思う。他人の評価を気にしてきたせいで、本当に自分の望むものすら見失いかけてきている。すべてのしがらみを取り除いた時、私の中に残るものは何なのだろうか、むしろ今のままでは何も残らないのではないだろうか。「死の意味」を考えなくなって久しい。考えなくても生きていけるしその方が楽だったので、あえて避けてきてしまった。そのせいか、最近ひどい虚無感に襲われることがある。そこから脱するためにも、人生を自分のものにするためにも、今のうちに自分を見つけておくことは重要なのだ。